ブルーなポップと中空ロック

何となしに音楽の話をしています。

Psychopomp / Japanese Breakfast

今年の春、久々に東京へ行く機会があり、渋谷のTSUTAYAがレンタルのサービスを終了していたことをその時初めて知った。TSUTAYAが次々と町から姿を消している話は少なからず耳にしたことがあったが、東京やその近隣でのライブ帰り、どこにも在庫のないCDを借りにしばしば足を運んでいたその店がひとつの終わりを迎えたというのは、自分にとっては特別な感慨をもたらす出来事であった。CDや映像作品をレンタルする文化が潰えるということを、いよいよ実感させられたようだった。主流層はサブスクリプション、一部の愛好家はLP盤の購入と、そのような二極化があるとすれば、レンタルはおろかCDそのものも危うい立ち位置にあるのかもしれない。私個人は収集欲求や経済性の兼ね合いからCDレンタルを主軸としていたため、その未来を憂いつつも、その一方で、先日discasで借りたCDの取り込みが億劫で数日間放置しており、そのCDに入っている曲をyoutubeのトピックで聴いている自分もあり、それがまた口惜しかった。

「Psychopomp」は、ドリームポップと括るに相応しい煌びやかなシンセがまず目を引くが、「Everybody Wants to Love You」や「Heft」など、多くの曲で純なバンドアンサンブルの骨格が色濃くうかがえるのが印象的。「In Heaven」のBメロでストリングス?が入り一段深くなる瞬間、「Rugged Country」のサビで広がっていく感覚など、素直ながらグッとくるお手本のようなシンセアレンジがとても好き。本作は実体験としての母との死別がテーマになっているとのことで、特にアルバム後半の曲で顕著な、感情を絞り出すようなボーカルも胸を打つ。

In Heaven

In Heaven

  • provided courtesy of iTunes

 

Lesser Matters / The Radio Dept.

少し前、長らく使い続けたiPodiTunesから曲を吸い出してくれなくなり、暫くは悲しみに暮れていたが、先日思い立って自力での再生を試みた。結果的に概ね正常に動くようになり性能面で向上した部分もあったが、自分の不手際で余計な費用がかかったり、翌日の活動に影響するレベルで疲弊するなど、総じてプラスになったのかというのは何とも微妙なところである。当然といえば当然だが、手順よりも構造を理解すること、パテナイフを準備しておくこと、それらが今回の教訓だろうか(これ自体には次が無いに越したことはないのだけれど…)。ともあれ何より成功したこと、それによって何とかなるのでは的な発想が現れたのは良しとしよう。出先でこれ見よがしにひけらかしてゆくのだ。

The Radio Dept.の音楽は、ピンクノイズめいたエフェクトと、打ち込みドラムやシンセの電子音の感が特徴としてみられ、作品を重ねその洗練とともに後者の比重が大きくなっているように思える。「Lesser Matters」は同バンドの1枚目のアルバムであり、その萌芽はみられるものの、ざらりとしたノイジーな音が印象的な曲が多い。曲の構成は、明確なサビを持つものがほぼない、ボーカルは遠くまたバチっと盛り上げたり解決したりする場面も少ない、といった要素が全体としての浮遊感につながっているように思う。歌は短いフレーズでじんわり聴かせる分、オブリがしっかり効いてくる曲も多く、「Why Won't You Talk About It?」や「Ewan」のサビ、「Against the Tide」のアウトロのフレーズはシンプルながらとても良い。

 

Yard / Slow Pulp

前回のブログでArt-Schoolを話題に出したのがきっかけで、興味はあったが先送りにし続けていた映画「ミスター・ロンリー」を観ることができた。とても興味深い内容ではあったが、また非常に重い内容でもあった。インパーソネーターという題材が宣伝では前面に出ているが、次第に生きることや死ぬことへの問いかけみたいなのが、それを追い抜いてより直接的に表現されていた印象だった。まあそこは自分がその相互のつながりを読み取れていないだけかもしれないけれども…。その問いを補強するかのような寓話めいたパートもなかなかに衝撃的で、頭の整理が難しかった。土曜日の夜というハッピータイムに観たのを少し後悔もしたが、こういった作品を通して人生に向き合うことも大事だし、雑事や享楽に身を投じて人生を忘れることもそれはそれで必要だよね、と、今はそんな心持ちである。

 

下記のリンクは覚書までに。本作ではなく映画「ポンヌフの恋人」に関する記事なのだが、後半でレオス・カラックス監督の苦悩と叶わぬ再会、「ミスター・ロンリー」での巡り合わせについてまとめられており、Art-Schoolの初期の楽曲で監督の手掛けたアレックス三部作へのオマージュ(?)が少なからず見られること、活動再開となるepで同タイトルの曲が作られ収録されたことを思うと、べつに何も関係はないが、何となくしたり顔になれそうである。また、以降の音楽の感想はここまでの話と全く関連しない。

【解説】映画『ポンヌフの恋人』フランス映画史上最大のセットと大ヒットが、レオス・カラックス監督にもたらしたものとは :2ページ目|CINEMORE(シネモア)

 

「Yard」は、ギターの厚めなインディー・ロック~シューゲイザー好きの私にとって、非常にしっくりくるアルバムだった。「Slugs」に代表されるスローな曲群は、キーの低い女声ボーカル、シンプルな8ビートと曲構成、ローファイで籠りがちなギターやドラムの音像と、内省的だがポップでもあるひとつのフォーマットとなっているようで、その中にまたそれぞれのフックやアレンジの魅せ方が盛り込まれているようで趣深い。対照的にボーカルが歌い上げるようなアコースティックな曲「Carina Phone 1000」、パワーポップ然たるアップテンポな曲「Cramps」等も脇を固めている(曲の性質上、この表現は前者の曲に用いるのが適切である気もする)。曲時間が短く分かりやすい点は現代的だが、同時に好事家諸氏のほしいところも詰まっているような、そんな素敵なアルバム。the brilliant greenっぽさもあるし日本人ウケもいいに違いない(適当)。

Slugs

Slugs

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Just Kids. ep / Art-School

好きなアーティストがこれまでと異なるテイストの曲を出したことによる「変わってしまった」という落胆は、音楽が好きな人にとってはある種あるあるネタにも近しい感情なのかもしれないし、私にもその覚えがあった。そのアーティスト個々人の聴いた音楽、読んだ本や映画、ひいてはその時の社会情勢や個人の境遇によって、それらから産まれる作品が変わっていくことは、考えてみれば仕方のないことと、今となっては思える。自分と同じ、それぞれの人生を生きる人間としてアーティストを見れば、価値観が移ろうことには何ら違和感はないかもしれないが、趣味嗜好の対象の一つとしてアーティストを見れば、その人に求める音楽性それ自体をその人と定義し、結果そこから外れることに落胆してしまうようになるのだと思う。とはいえ自分の作品を売り物にしている以上は、客のニーズに応えるという意味では失敗なのかもしれないし、そう思わせない戦略なんかが必要なのかもしれないのだけれど。

 

「Just Kids. ep」は、Art-Schoolの作品としてはあたたかい印象を受ける。どの曲も比較的ミドルテンポ寄りで、かつリズムやバッキングのゴリゴリとした感覚がそれほどなく、聴きやすい仕上がりになっている。アルペジオであったりボーカルに寄り添うようなオブリ重点のギターがそう感じさせるのかもしれないし、復帰作かつ4曲epということでアレンジはあまり凝らずにありのままを出した、といったこともあるのかとも想像した。ボーカルや詞は相変わらず暗さ・救いのなさを感じさせるのが、そんなでもぼちぼちやっていきましょう、というふうな(諦観の後段にあるにせよ)ほのかな明るさもある気がして、Art-Schoolとともに成長して年経たファンには特別な感慨をもたらすのだろうなと、あるかないかは分からないけれども、そんなことをしみじみと思ったりもした。憂鬱な夜にも何もない昼下がりにもまるっと聴きたいep。

あと、「Just Kids」のMVはもっともっと再生されていいと思う。

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Sung Tongs / Animal Collective

音楽情報の収集やミックスリストの活用に疎い私においては、たとえジャンルや界隈を代表するようなアーティストであっても、興味のタイミングの掛け違い一つで触れることなく幾数年、といったことがままある。Animal Collectiveもそういった存在のひとつであった。こうしたセンセーショナルな邂逅がそこら中に埋もれているのを思えば、私もまだそれほど人生を悲観しなくても良いのかもしれない。

 

「Sung Tongs」は、全編に渡りアコースティックギターが主軸になっており、その音やアタック音が打楽器や鳴き声めいたコーラスと相乗して、民族音楽のようなプリミティブな高揚感に溢れているように思う。一方で、曲の構成は、ほぼ単一の通奏や小単位の進行の繰り返しに歪んだ音や声がのっかって展開していくものが多く見られ、ダンスやミニマルな音楽にも似た不思議な陶酔をもたらしてくれるようである。「Leaf House」「Kids On Holiday」「Visiting Friends」はそれらが顕著に感じられ、個人的に特に好きな曲。「Leaf House」はコードがぶつりと切り換っていくのがサンプリングな音楽を思わせとても趣深い。命の歓びを思わせながらまた無機質でもあり、残酷でありながら温かくもある。

so what?

2019年の春にこのブログを立ち上げてから5年が経った。といっても、まともな頻度で投稿していたのは最初の1か月程度で、投稿をすること自体も2020年末で終わってしまっていたようである。

音楽を聴いたり楽器を弾いたりすることは、飽き性の自分としては趣味といえる程度には長続きしかつ恒常的に行っている文化的な行動だった。その趣味が高じて、自分で詞や曲を作ったりもした。その一環としてこのブログに好きな曲の話や自作の詞を気ままに書いたりもした。

もちろん純粋に好きな気持ちはあるが、本来自分には音楽に対する執着的な興味はなく(真に秀でた人が謙遜または皮肉めいて使う意味でなく、言葉通りの意味である)、本当のところはそれよりもっと取るに足らない、なにか片手間な時間の浪費が、自分にとってより自然に毎日を満たすことのできる行動なのだとも思う。

反面、そうした行動、言わば人生を無駄遣いするような行動が社会的に認められることではないという自責の念もあり、あさましい話であるが、音楽に携わることが自分にとっての文化的、ひいては社会的な人間としての最後の矜持だと考えることもあった。それは信条としての意味だけでなく、何かの賞や売上げといった即物的な成功でないにせよ、友人ができたとか、演奏をうまくやったとか、創作したものをほめてもらったなどという、音楽活動を通じた人並みの体験から感じられたことでもあった。

何かに追われてまで続けるようなものでもないかという気持ちと、やめてしまったら真っ当なものには戻れないのではという気持ちが、このブログを書かなくなる前か後くらいから自分の中で何とはなしに巡っていた気がするし、それがより自然な向きへ傾いた結果、このブログの3年余の空白に語られるままの人生を過ごすこととなったのだとも思う。

正しくあるべき向きへ戻そうとして悪循環に陥ることもあった。実際そうすべきなのだとは思うが、今更どうこうなるものではないとも思う。一方で、かつてあったなけなしの思考や感性がすっからかんになってしまうことが口惜しいとも、またどこか感じている気もする。そんななあなあな心持ちのまま、今も毎日を続けている。

結局、事実として在るのは果たして自分はろくでもない人間であったというただそれだけで、音楽もやれば何なりかはあり、やらなければこのまま終わりというただそれだけなのだと思う。言葉を並べればまあ当然の事にも思えるが、自分の感覚として落ちるというのはまた別で難しいものである。

仰々しくなってしまったが、自分個人に日常生活が困難になるようなトラブルがあったわけではない。診断書をもらったわけでもなく、ネットカフェからブログを書いているわけでもない。甘えた事をぬかすと笑われても仕方無いが、自分にとっては重要なことであったし、時としてそうした心の機微がなにか暗い決心や行動につながりうるとも思わなくもない。

閑話休題、そんなこんなで音楽に関してもまたフラットな心持ちでやっていこうと思ったわけである。少し前まで惰性で昔の曲を聴くばかりになっていたが、最近は相変わらず偏りながらも新しい音楽(自分にとってという意味で、世間一般には使い古されたものであるかもしれない)を聴くことも増えたので、それらの話を飽くまで自己満的にこのブログでできればという次第である。またすぐにサボって消えてしまうかもしれないけれども…自らの思考活動の一助とならんことを。

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