ブルーなポップと中空ロック

何となしに音楽の話をしています。

eternal springtime

サカナクションの「忘れられないの」を思い出したように聴いていた。聴いていると涙が出そうになった。弾き語りと音源の比較は、音の動きがコードを彩る、リズムがセクションを形作る、そんな当たり前な、作品の完成を追体験させてくれるようだった。弾き語りは音のニュアンスは少ないが、その単純なコードに力強さや純粋さを感じることができた。

 

暖かくなってきた昼前に、川沿いの道や公園を歩いていた。通りを外れた場所だったが、いくつか人の姿が見えた。ジョギングをする人、犬と散歩をする人、ベンチで何か食べている人、みなが思い思いに、この春の先触れを楽しんでいるようだった。私も私なりにと、立ち止まり少しの間、その人々や青い空を眺めたり、川の流れや草木の揺れる音を聞いていた。そのひとときの間は、自分に常について回る感覚や意識が全て流れ出ていったようにも、自分とそれ以外を隔てるものが取り払われ一つに合わさったようにも思われた。その体感は、私の孤独の行き先であり、旅や芸術などの文化的な活動の中に、私が見出そうとしていたものだったと、わずかばかり思い出せた気がする。そのとき私は、私の認識の中にあったかの人や景色のように、私もその一部になれればと、願っていたのだと思う。

 

家に帰り、カップラーメンに注ぐお湯を沸かしながら、「忘れられないの」をまた口ずさんでいた。サビに入る「用意する」という歌詞は、言葉をしたためる古風な表現にも、自発的でない或いは作為的な表現にも捉え得る、不思議なフレーズだった。陽の当たらない部屋は、外よりも少し冷えるように思えた。思春期の感情の蓄積を音楽とする山口一郎氏の営みを、私はこの歌にふと感じていた。

忘れられないの

忘れられないの

  • サカナクション
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

トラッシュマン

一年が終わる。旅も、人も、立場も、これで最後だと心のどこかで願いつつ、今日もそれが叶うことはないようだった。

残りの人生で、あとどれくらい本当のことを言えるだろうかと、考えるようになった。自分を取り巻くものごとが、少しずつ先へ進んでいるような、自分だけがそこから取り残されていくようなで、何とも虚しい気持ちが胸に蔓延るようになってきた気がする。ただ単に、自分にあるべき相対的な価値や正しさを私が知り損ねたと、それだけの事なのだろうとも思う。その虚しさや隔たりは日ごとに大きくなり、どうにもならないとか、こうすべきだろうとかで、口をつぐむまま、本当のことは、すっかり心から出ていかなくなってしまった。

数年前に観た「生きちゃった」という映画のことを思い出していた。何となしに、また曲を作ってみたいと思った。誰かに伝わることはないけれども、自分が愛せる形で本当のことを表せるなら、それで良いだろうと、諦め半ばながら思えもしたのは、まだ幸運だったかもしれない。

さよならストレンジ・ラヴ

最後の日から3週間が経とうとしていた。私は辞世にはやや不相応な「DREAMY COLOR」を聴き、ささやかな感動を思い出していた。

ラブライブ!サンシャイン!!」という作品に、私は生きることそのものを見た気がする。物語である以上、多分にドラマティックであるそれは、当然私自身のしみったれた人生とは異なるものではあるが、その一方で、誰しもに当てはまる、なだらかに続いていく人生のようでもあったと感じる。そして私はまた、Aqoursという9人の声優の活動にも、同じものを見出していたように、今は思う。

この作品の主題は、作中の要所で語られる言葉、「0から1へ」というところにあると思う。それは始まりを予感させるものでもあり、未だ何もないことを意味するものでもある。彼女たちの道は、立ち上がっては折られることの繰り返しであった。苦難の末にひとつの大きな目標を叶えることはできたが、その道すがらでは大切なものを失い、またその叶えた目標さえ否定されてしまう。それでも、そんな時間の全てこそが自分たちにとって最も大切なものだったと、また未来を信じて歩き出し、幕は下りる。月並みなハッピーエンドにも見えるし、側から見れば虚しい結末にもとられるかもしれない。何かを頑張ってやり切ること、ましてや何かをすること、しようとすることに、他人にとっての価値や意味など無い。ただ自分の中でそれを抱いていき、また続いていくだけなのだ。誰に言えることでなくても、自分の中で何かに気づいたり、何かが変わったりする、その連続が人生なのだと、伝えられたようだった。

ラブライブという作品ではいつからか、キャラとキャストのシンクロという概念が強く押し出され、内外で信仰されるようになったと思う。その期待につられたものかもしれないが、この作品には特に、上記の境遇に通じるものが、キャストの活動にも見られたように思う。その活動は先代μ'sの実績と比較され続けたし、その先への新たな試みと意気込んだ活動も、コロナ禍で縮小し、消滅してしまったものも少なからずあった。CDの売り上げ、ドーム公演の記録などは顧みられることなく、μ'sやスクフェスでかつて取り込まれていた一般層などには、ラブライブという存在が今も続いている認識すら無いであろう。残った敬虔なファンすら、時が経ち、ライブの中止が相次ぐ中で、心が離れていったかもしれない。そうした時を経て、最後にひとつの区切りとしてライブをやり遂げた。この一連の筋書きは、彼女たちが演じた作品に、形は違えど、どこか通じるものを感じられた。最後の舞台には特別な意味が当然存在してはいるが、これまでの全てがそこに続いてきた、ただそれだけの事実が最も大切なのだと、伝えられたようだった。そこからまた誰の人生も続いていくからこそ、またねと笑顔で手を振ったのかもしれない。

それらがまた語ったのは、未来への希望、すなわち、0になった時、次の1が輝かしいものになる、という期待である気がする。それは彼女たちにとっては、喜びと痛みを知ったからこそ、努力すれば何かに繋がっていくと信じられる、ということなのだと思う。愚かで楽観的な私は、また何かに出会えるだろう、というあてのない期待だけが、自分の全てなのかもしれないと、改めて思った。サクセスストーリーだけではいかない少し暗いお話、こうしたこじつけめいた人生観との親和が、私がこの作品に傾倒したきっかけや理由だったのだろうなと、気づいたりもした。

「DREAMY COLOR」のサビに乗る畑亜貴女史の詞は、シンプルで、楽しく、力強い。感動は日々遠くなっていくはずなのに、私はまた懲りずに、ありもしない希望を予感していた。

静岡県沼津市から参りましたAqoursです。ドラムス、アh…」

 

シト新宿

夜行バスは早朝の新宿に到着した。かつてなら新宿御苑明治神宮に足を運び3時間程を過ごそうというところだったが、今の私にその気概はなく、新宿南口のマクドナルドに寄り、コーヒーを啜りながら、街が開かれていくのを待った。東京の朝にはandymoriの「ファンファーレと熱狂」がよく映える気がして、この日も流していた。

このアルバムの曲ではないが、「Life Is Party」で語られていた、おもちゃも漫画も捨ててしまおうという瞬間が、まさに今目の前にあるような気がした。フィッシュマンズandymoriを聴くと、彼らには一体何が見えていたのかと、思うことがある。芸術的な観点でも、まして社会的な価値観でもないなにか、常人が人生を消費しきって初めて知り得るような感覚が、20代半ばだったはずの彼らの音や歌詞から伝わるわけである。物事の見え方は、例えば本や映画に触れたり、多くの人と関わったり、世界中を旅したりすることで、知らないことを知り、新しいものを取り入れ、変わっていくものとは理解できる。だがそれは経時変化するもの、特に人生のこの先を知ることにも当てはまるのか。ヒトの生涯の本質のようなものを知覚することは、同じようにはいかない気がしている。そこに何か、彼らのような優れたアーチストの持つ特別な感受性というものが介在するのではないかと、思ったりもする。

新宿のディスクユニオンでは目ぼしいものは見当たらなかったが、ブックオフでA Sunny Day in Glasgowの1枚目のアルバムを見つけたので買った。輸入盤はだいぶ前に手に入れていたが、国内盤のアートワークがよく、また安かったので、迷った末に購入した。私は人混みと酷暑の中を抜け、所沢へ向かった。

 

16

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  • provided courtesy of iTunes

 

ほこりのたまったリビングに寝転び、ヤマジカズヒデの「crawl」を聴いていた。旅の感傷は、もうすっかり失われてしまったようだった。また春になった。

いつかどこかで読んだ、坂本慎太郎氏のサイケデリックに関する言葉を思い出していた。氏のイメージするサイケデリックというのは、極彩色のぐるぐるぐにゃりとした流動体でなく、黄土色の砂漠のような広い空間と、そこにぽつんと立つ白い家である、というふうな内容だったと思う。私の感覚が脚色している部分もありそうだが、ともあれこのアルバムを聴いて、その言葉の意味の一端を知ることができた気がした。サイケの持つ生命の高揚振り切るような有機的な側面、この世の果てを見るような虚ろな側面は、相反するものにも思えるが、薬物中毒の精神が事切れる時を迎えるさまのような、ひとつの地続きのものなのかもしれない、と考えを巡らせたりもした。オールハイルLSD!「オモト」「真空管」「セル」の荒涼としたサウンドスケープは、トリップとその先にあるものを体現するかのように聞こえた。

スーパーでの買い物を終え帰宅した頃には、そうした音楽、思案への陶酔も冷めてしまっていた。命は自我に興味ない、というダークサイドに堕ちた畑亜貴女史が書いたような、syrup16gの歌詞が頭に浮かんだ。買い込んだミニトマトのパックを開け、容器に移す折、そのひとつが床に落ちて転がった。私はそれを拾い、丁寧に洗った後、口に含んで飲み込んだ。

オモト(シアンII)

オモト(シアンII)

 

愛と幽玄のテネシー

飛行機の出発が朝7時だったため、その日は始発で空港に向かわなければならなかった。私はこれからアメリカに行くことになっていた。あてがわれた席に座った私は、ジェット機のごうごうという呻き声に意識を吸われ、すぐに眠ってしまった。食事の間は、隣の席の人が「ジョーカー」を流していたので横目で観ていた。はじめは起きたついでくらいのつもりだったが、結局最後まで観てしまった。映画館でも観たし配信でも観返した作品であったが、やはり良い映画だと感じた。顧みるべき事も、打つべきだった手も、すべてがおざなりになったまま、旅がまた始まろうとしていた。

空港でレンタカーを借り、ホテルに向かった。車を走らせていると時折、鳥や鹿のような野生動物の死骸が、分離帯や路肩に落ちているのが見えた。以前アメリカに来た時にも見た光景だった。私はart-schoolの「ステート・オブ・グレース」の詞を思い出していた。無言の車内に、ラジオの陽気な音楽が、少し虚しく響いていた。

ホテルに着きほんの一服した後、現地の人間と、私を含む来訪者で、夕食の席を囲んだ。その場で私も少しばかり、話せもしない英語を使い、アメリカ人との対話を試みたりした。それはフライト中の睡眠による快復がもたらした無謀か、あるいは限界の緊張による敗れ被れだったのかもしれない。その顛末がどうであったか、それが何をもたらしたかは、思い出すこともない。

海の外の人間やその暮らしの一端に触れるたび、自分ももうあと少しばかりは、思ったままをあけすけに話すとか、なにかを好きだと単純に言葉にするとか、そんなふうな生き方をしてもいいのではと、思ったりする。それは自身の信条というよりは、他人との関わり合いに対する方法論なのかもしれない。己の無知を知り、恥じ、疑い、移ろいながらも何かを知ろうとすることは、美徳であったとしても、目指すべきあり方だと信じている。しかしコミュニケーションにおいては、内心から抜け出せず言葉に詰まるよりは、たとえその場限りであったとしても、そこにある本当のことを言う事が必要なのだと思うし、そうできればと思っては変われずと、延々繰り返しているような気もする。

ホテルからしばらく歩くと、川にも見えるような細長い形の湖があり、そこに橋や噴水をあしらった、公園のような一角があった。湖の片側には小洒落た佇まいのレストランやバーが並び、テラス席を構えていた。店の灯りや橋につけられた装飾や電灯が、ほのかに光っているのが綺麗だった。私はベンチに座る白人のカップルを眺め、art-school「lovers」や「ghost of a beautiful view」を思い出していた。art-schoolの詞や楽曲は洋画を想起させ、目の前の風景をより非日常のものに彩ってくれた。B面ベスト盤はやはり良いアルバムだなと、何とはなしに考えていた。

Ghost of a Beautiful View

Ghost of a Beautiful View

Sugar at the Gate / TOPS

休日の街はたくさんの人で賑わっていた。日も落ち始める頃、私は駅の改札口の前に並ぶベンチにへたり込み、行き交う人達をぼんやりと眺めていた。目眩のするような暑さを感じていたはずだったが、しばらく座っているといつしか発汗もおさまっていた。それは夏がまた終わりつつあることを思い知らされたようでもあった。

映画「ミスター・ロンリー」の中盤以降に、病気に罹った家畜が保健所の命令で銃殺されるのを見て、ヒロインが死を感じ、死ぬという選択に取りつかれてしまう、といった流れがあった。それと同じように、私自身も、あの映画を観てから、生きることと死ぬことについて考えることが多くなった気がする。スーツを着た男、キャリーケースを引く外国人、足や腹部を露出させた女、小さな子供とそれを追う親、暑いとか何処へ行こうとか談笑するカップルと、目の前を通り過ぎる人の種類は様々だったが、それらが今考えていること、営む行為、この先にある予定、その全てが、死から目を背けるための没頭なのではないかと、そんな考えが浮かんでいた。それは私のニヒルな性分から生じた思い付きだったかもしれないが、裏を返せばその全てには意味があり、そこにできるだけの身体的・精神的な充足を見出すことが、幸せな生涯というものの在り方なのかもしれないとも、思えなくもない。

TOPSの音楽で私が気に入っているのは、洗練された都会的なポップの雰囲気を持ちながらも、華美になり過ぎず癖のあるアレンジで、マイノリティな聴き心地も持っている点である。「Sugar at the Gate」はそうした軸を残しながらも、「Petals」や「Cutlass Cruiser」のようなよりポップな部分を押し出した曲もあり、意欲作となっていると思う。メロディーの間やブレイクにある神秘的ともいえる緊張感も良い。「Further」や「Dayglow Bimbo」は特に好きな曲。後者は一筋縄ではいかない構成は要所にあれど、歪んだ音をはじめ直情的な印象で、本アルバムやバンド全体を見てもかなり異質な曲に思われる。最初に挙げた気に入っている点とは離れてはいるが、心に刺さる不思議な魅力のある曲だと感じた。

Dayglow Bimbo

Dayglow Bimbo

  • TOPS
  • インディ・ポップ
  • ¥255
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